わたしたちの意識を現実的に繋ぎとめるための便宜的なものーー『きことわ』、朝吹真理子

 

 この間、はじめて飲酒による意識と記憶の喪失を体験した。お酒に弱い体質なので、そのような体験は自分には無縁だろうと思っていただけに、驚きと好奇心が綯い交ぜになったような感情をいだいた。

 記憶をなくす、とは言うけれど、僕の場合は正確には何が起きたのかは断裂的に覚えてはいる。お酒を購入し、電動バイクを運転し部屋にもどり、いつもよりハイペースでそれを飲む。PCで音楽を聴きながら作業をしていると、音楽がいつもよりも深いグルーヴを帯びはじめ、余計にお酒は進み、そこで頭のなかのスイッチが跳ねた。その後はルームメイトに介抱されながら、ベッドに座ったり横になったり、トイレにかけこんだりといった具合である。それらの断裂したひとつずつの記憶はたしかに覚えている。しかし、酔いが一番深く回っている頃と二日酔いのひどい翌朝の段階では、それらの出来事の前後関係を、うまく結び合わせることができなかった。何が起きたかは覚えているのに、どのようにしてそれが起きたのかがわからないのである。記憶を掴もうとするほどにそれは遠くへと逃げていき、そうこうしているうちに、それが本当に起きたことなのかどうか自信が持てなくなる。酔いによって催される吐き気や頭痛よりも、そのことへの恐怖と驚きを覚えた。

 しかし、角度を変えて考えてみると、脳や意識が身体的に正常に働いている間は時間の流れを直線上にとらえることができ、それらに支障が出ると途端に前後の関係をつかめなくなるとも言える。そういった種の正常さから外れたとき、ひとは時間軸の失った混沌の世界へと入っていくことができる。

 

 朝吹真理子さんの『きことわ』は、そういった時間軸のない混沌とした世界へと読者をいざなってくれる。この小説は終始、「時間」について、執拗なまでのこだわりを見せる。ディテールを挙げ始めればきりがない。ふたりの主人公のうちのひとりの名前が「永遠子」であること、繰り返される地層や古代の話、時計屋の父、「三分間」への考察、etc…。それらの描写を読んでいると、時間の不確実性を感じずにはいられない。時間というものが定まった法則のもとで等しく動き続けるもののようには思えなくなってくる。僕たちはよく過去の出来事について記憶が曖昧になることがあるが、それも実は時間の持つ揺らぎが、結果として記憶を揺るがすのではないかとさえ思えてくる。「過去は思い出すと、それは今起きている出来事になる」というようなセリフが本書のどこかに出てくる。時間はわたしたちの意識を現実的に繋ぎとめるための便宜的なものかもしれない。

 本書のストーリー自体は、とてもシンプルである。小さい頃は毎年のように会っていた幼馴染に、思い出深い場所で25年ぶりに再会をする、というものである。抑揚のきいた文体から紡がれる文章は美しく、また筆者の時間に対する強いこだわりに興味を覚え、最後まで飽きることなく読み進めることができた。あらゆる芸術がそうなのかもしれないが、小説もまた時間の芸術である。小説の持つ時間性、小説の表現できる時間性、そういったことについて改めて考えるきっかけを与えてくれた一冊だった。