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胡同の帰り道

――北京での生活について、日常の雑感を書き記していきます。

山西省一泊二日の旅ーー平遥古城と双林寺

 先月の話になるけれど、山西省中部にある平城古城と双林寺にまで足を運んできた。どちらも世界遺産に登録されていて、最近では北京からも高速鉄道が通るようになり、小旅行にはとても適したところだった。余談になるけど、山西省は縦に長い省で、上から晋北、晋中、晋南と分けるようで、区分の仕方が長野県のそれと似ているとふと思った(長野には他に東信というのもあるが)。

 

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 平遥古城は少し変わった歴史を持った土地だった。土地の利をいかして、特に清代には為替行で大きく栄えたのだけど、民国に変わり制度の改革のなかでおのずと町も衰退してしまい、ついには建物を改築することもできないくらいに貧しくなってしまった。しかしそれが故に明朝や清代、またはそれ以前の古い建築が見られるということで今では観光地として再び栄えるようになったという、なんだか数奇な歴史を持った城郭都市だった。

 

 

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(お昼ごはんに食べたカオラオラオ(栲栳栳)。蜂の巣のような形をした主食の面。この地域の特産らしい。)

 

 

 中国で初めての私人銀行が成立した場所ということで、その跡地を観光地として使っている「日升昌票号」というところに足を運んだ。ここでは地元の観光学部に通う大学生が実習として無料で案内をしてくれた。学生が教えてくれたことによると、実際にお金のやり取りをする際の本人確認として、詩の上の句と下の句をそれぞれ照らし合わせて確認をしたり、また商売の状態を表すのに雨を比喩として語ったりしたそうだった。金融業ではあるけれど商売の随所に文学的なやりとりが見られることは、文を重んじる中国らしいものだと思った。

 

 

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 ちなみに、近くには用心棒博物館というようなところもあった。どうして用心棒なのだろうと思ってふらっと中に入ってみると、金融業が発達したことにともなって、それを守るために用心棒業も同じようにとても発達したからだという。風が吹けば桶屋が儲けるみたいな話で何だか面白かった。

 

 

  地方の町だけれど、城郭の中にはレコードショップがあったり、おしゃれなカフェがあったりもした。レコードショップは四畳半ほどの小さなスペースだった。30代後半くらいの店主が自分で集めたというレコードやらCDやら本やらがそこにはびっしりと積まれていた。ここに広がる景色と歴史的な町並みが並ぶ外の景色と比べると、なんだかそこには時空を隔絶するようなものさえ感じられた。ここにはこの男の心のなかの宇宙が広がっているのだと僕は思った。

 

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「レコード、売れるの?」と率直に聞いてみたら、1日1枚売れれば良いほうだよと少し笑いながら店主は答えてくれた。それからしばらく雑談をしていると、カメラの機材を持った学生たちがぞろぞろとお店にやってきた。聞いてみると彼らは地元の映画学校に通う学生たちのようで、このお店のドキュメンタリー映画を撮っているのだと言った。ここのお店のマスターはとても変わった人だからね、と学生の一人が言った。

「北京から来た日本人なんだよ、こいつ」と店主が言うと、学生たちが俄かに盛り上がり始めた。先ほどの観光学部の学生もそうだったけれど、この地域の人たちは日本人と会ったことがない人(言葉を交わしたことがない人)がまだ結構いるみたいだった。

「せっかくだから記念に君もドキュメンタリー映画に出ないか?」と学生がオファーしてくれた。特に話せることは何もないけれど言ったものの、学生たちのインタビューが始まったのでいくつかの質問に僕も適当に思いついたことを話した。撮り終わって学生たちは満足そうにしながら、店主と一緒に次の撮影地へと消えていった。

 

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(店主と学生たち。この写真を見ると何だか笑ってしまう。)

 

 

 夜は古くからの四合院を宿として提供しているところに一泊した。先週までの連休のピークが過ぎたこともあり、その日は僕以外には数人の客しかおらず、宿の部屋はどちらかというとガラガラに空いていた。そのおかげで僕は空いている中で一番グレードの高い部屋を使わせてもらうことになった。お礼を告げてから部屋へと行き、しばらく荷物を整理したり、歩きつかれた身体を休めてから、ラウンジに戻ると宿主のおじいさんがひとりで新聞を読んでいた。

 

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(宿泊した宿。)

 

 おじいさんと雑談していると、いくつか面白いことに気がついた。ひとつは、僕が質問をする度におじさんが「俺たち平遥人は」という主語を多用していたことだった。山西人ではなく平遥人と答えるのは、四方を壁に囲まれた町のなかだけに、帰属意識が高まるからなのだろうか。

 もうひとつは、方言の話になったとき(おじさんは山西訛りの入った中国語を話した)、おじいさんが西安(中国語ではシーアンと発音する)のことを日本語と同じく「セイアン」と発音したことだった。僕がそのことをに伝えると、おじいさんがとても嬉しそうな表情をしていたのが印象的だった。(後日、この話を西安出身の友達に話すと、唐の時代などの日中交流のなかで陝西省や山西省の地域の言葉が、日本人に伝わったのではないか。実際に、西安の方言は日本語の響きに似ているという人もいるらしい、という仮説を話してくれた)

 それから宿主がおもむろにテレビをつけた。何の番組を見るのだろうと思うと、抗日戦争のドラマだったので僕は思わず笑ってしまった。これはこれ、それはそれなんだなと僕は思った。

 

 ユニークな宿主のところで一泊をしてから、翌朝も軽く古城内を観光してから、近くにある双林寺に足を運んだ。双林寺のほうには人がほとんどおらず、小雨も降っていたのでとにかく静かだった。記録では1400年前には建てられていたということで、色々な時代の仏像がおさめられていた。ちなみに僕の他にどこかの美術学校の学生たちが来ていて、みんな熱心に仏像やら風景やらを黙々と上手にスケッチしていた。悠久の歴史の流れをぼうっと思いながら、静かな時間が過ぎていった。

 

 

 

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 授業の合間の週末に少しゆっくりしようと思ってきた小旅行だったけれど、振り返ってみると色々な人との交流があった旅路だった。それぞれの人が、それぞれの場所で、今も元気に生活していることを願う。

 

 

信州横断の旅(4日目、最終日)~満蒙開拓記念館~

 

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 旅行も四日目、最終日に。

 

 前日の夕刻に阿智村の昼神温泉郷に入り、休息をとる。夕食では、鯉の煮付けを初めて食べた。聞くと近くの山の渓流でとってきたもので、身も引き締まっていてとてもおいしかった。ここは星がきれいな村だと聞いていたけれど、夜から雪が降ってしまい、星空を見ることは叶わなかった。温泉にゆっくり使って、早めの時間に就寝する。

 

  朝も宿で和食のバイキングを食べ、身支度を整えていざ出発。バスに乗って向かうは旅の最終目的「満蒙開拓記念館」。昼神温泉郷からバスに乗って20分ほど、「こまんば」というバス停で降りて、そこから歩いて向かう。

 

 記念館へ向かう道の途中には田んぼが広がっていて、そこには昨日の夜にかけて降り積もった雪が朝日に眩しく照らされていた。星は見れなかったけれど、その代わりにこの景色を見ることができてよかったと僕は思った。

 

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 バス停からゆっくり歩いて20分くらいのところに記念館はひっそりと存在していた。(僕は道を間違えて遠回りしてしまったので半時間以上かかってしまったのだけど……)まわりには学校と、小さなスポーツグラウンドのようなところがあるだけで、その他には特に何かがあるというわけではなかった。自然の美しさと静寂さが今になっては印象に残っている。

 

 

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 記念館は横に長い木造の建物だった。写真で言えば、奥側には展示スペースが広がっていて、手前側にはシアタールームが拵えられている。シアタールームでは、満州からの引き揚げ者たちの証言が延々と流されていた。

 

 まずどうしてこのような記念館が長野県にあるのかということに触れておかなければいけないのかもしれない。僕も記念館に来るまでは知らなかったのだけど、満蒙開拓に向かった人たちが全国で一番多かったのがここ長野県になるのだった。その他には東北地方各県や、熊本県も多かった。共通しているのは農業の強いところ。今よりも伝統的家族観の強い時代にあって、農家の次男や三男などに生まれた人は、あとを継ぐこともできず、将来の展望もひらけなかった。そんな状態で家に残っているくらいなら、満州に行って大地主になり、土地を耕していくことが国のためにも貢献できる、そう信じて多くの人が大陸に渡っていった。

 

 展示スペースは決して広くはなかった。それでもとても充実した内容だと僕は思った。いわゆる体験型の展示形態を採っていて、順路を前に進んでいくと時代が先に進んでいくという構成だった。満州開拓を奨励する大手新聞社の当時の記事や、引き揚げ者の生の証言、また残留孤児の父と呼ばれた山本慈昭さんの活動を紹介する展示など、ひとつひとつ時間をかけてゆっくりと観てまわった。

 

 証言のなかには、ソ連進攻後の逃避行の最中をつづったものがいくつもあった。結果としてシベリアに抑留された人、現地の中国人にかくまってもらいながら運よく生き延びた人など様々いたが、逃避行の最中ではあまりにも多くの人が死んでしまった。そのなかには子どもたちも多く含まれていたという。或いは過酷な逃避行の途上で息絶え、或いは泣き叫ぶ子どもの口を親の手で自ら押さえて。それは沖縄戦のことを僕に思わせた。けれども沖縄戦に比べて、満州のことはあまり広く知られていないのではないだろうかと僕は思った。

 

 思いにならない思いを抱えながら展示を読んでいるとあっという間にお昼の時間になった。僕が何も持ってこないで記念館に来たことを知ったスタッフさんが声をかけてくれ、近くのコンビニにまで車で送ってくださった。外の空気を一度吸うと、頭のなかがリフレッシュされて、ひどくお腹がすいていることに気がついた。コンビニで軽食を買って、もう一度記念館に戻ってくる。

 

 食事を済ませてから午後はシアタールームでインタビューを観ることに。全部で90分の映像だったが、ひとつひとつの体験に耳をすませていると、あっという間に時間が過ぎていったという感覚だった。


 映像の中には日本人だけでなく、当時残留孤児を引き受けて育てた中国人の養母さんたちの証言もあった。満州から逃避行をするなかで、多くの人たちが命を落としたけれど、生きて中国人に引き取られた/預けられた子どもたちもたくさんいた。後年、日中の国交が正常化してその残留孤児たちは日本の本当の両親を探して帰国をすることになった。そして親の見つかった方たちは中国を離れることになる。

 インタビュアーが「自分の育てた子どもたちが日本に帰ると知ったとき、どのような気持ちになりましたか」と質問した。養母さんは「とても寂しいけれど子どもたちのことを思うとそれを喜ばないわけにもいかない」と語っていた。「だって本当の両親に会えるのだから」と。

 

 バスの時間が迫ってきたので、スタッフのみなさんに丁寧にお礼をしてから、僕は記念館を離れた。もう少しここにいたかった、というのが素直な気持ちだった。バス停に向かう途中、現代化した家屋などを眺めていると、この静かな村から満州に向かった人たちが労働奴隷や難民となって大陸に取り残されていたという歴史と、今僕の前に広がる現実社会との連続性が俄かには信じることの難しい気持ちになった。しかし、それはかつて確かに起きたことで、そして、今も世界のどこかで起きていることなのだ。

 

 バスは名古屋駅に向かっていった。山を抜け、いろいろな長さのトンネルを抜けていると、旅が終わるのだという実感が涌いてきた。色々な出会いと、色々な親切さに恵まれた旅だった。ここで出会った人たちと、またいつの日か、再会できればいいなと僕は思った。

信州横断の旅(3日目)~雪のなかの諏訪大社下社秋宮、春宮~

 

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 旅行三日目。宿で朝食を簡単に済ませてから午前中の時間を使って諏訪大社を含む下諏訪の観光に出た。

 この日は朝から雪がこんこんと降っていた。諏訪湖に来る前に、ゲストハウスの人たちから、諏訪湖のあたりは標高が高いから須坂よりも寒いかもしれないと言われたので雪が降るのはよくあることなのかと思っていたけれど、宿のおじさんによればこれだけの雪が積もるのは随分久しぶりとのことだった。おじさんの年齢は還暦を迎えるかといったところで、生まれてこの方ずっと下諏訪で育ったのだそう。

「今朝テレビで雪道を歩くときの注意ってのをやってたんだ」とおじさんは言った。「歩幅を小さくして歩くとか、誰かの足跡をなぞるように歩くとかって。でも、地元の人に言わせれば、そんなの誰も気にしてないよ。何も気にしないで歩くけど転んだことなんてほとんどないや」

 僕はあまり雪の降らない町で大きくなったので雪道は結構苦労します、と伝えると、それじゃあ転ばないように気をつけて行ってきいや、とおじさんは送り出してくれた。

 

 下諏訪には古い町並みが残っている。そしてそれは何と表現すればいいのだろう。その古さはここに流れる時間の緩慢さと相まって人をして内省的にさせるものがった。細い裏路地を抜けるときや、町に残る小さな神社などを通りかかったとき、ふと自分は今どこにいるのだろうとそんな気にさせられる。昭和がそこに残っていると言っても良いのかもしれない。不思議な感覚を残してくれた町だった。

 

 宿から歩いてすぐのところに諏訪大社下社秋宮があった。

 

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 小さなショルダーポーチとカメラに傘を挿して歩いただけだったけれど、それでもこの雪のなか写真を撮りながら歩くのは結構大変だった。けれど、こんなに雪に包まれた諏訪大社を見られるのも滅多にあることではないと思うと少し励まされる気もする。

 

 

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 境内は人が少なかったというのに加えて、恐らく音が雪に吸収されたのもあってとても静かだった(特に本殿のなかを覗いたとき、そこだけ時間が止まっているのではないかというくらいに静けさに覆われていた)。ざくざくという雪を踏む足音だけがよく聞こえてくる。

 ここでも御柱と宝物殿を見学してから、今度は春宮へと向かった。

 

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 春宮では掃除をされていたおじさんが焚き火をしていたので僕もそこで暖をとらせてもらうことにした。

 

 

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「火があまり強くないけれど」とおじさんは言っていたが、それでもずいぶんと暖まることができた。おじさんが黙々と掃除をするなか、僕も静かに火にあたっていると、入り口のほうから小学生たちが集団で歩いてくるのが見えてきた。授業の課外活動でどこかに出かけていくのだろうか。引率の先生は見当たらなかったが、整った隊列を保ちながら子どもたちはしっかりとした足どりで雪道の上を歩いていた。その姿を見ながら、たしかに今朝宿のおじさんが言った通りだと僕は思った。みんな降り積もる雪に格別はしゃぐわけでもなく、慣れた様子で神社を抜け、万治の石仏のある方向へと歩いて行った(僕にとっては雪がひどかったのでそこに行くことは諦めた)。

 

 秋宮と春宮、どちらの境内のなかにも幹の太い、いかにも樹齢の古そうな数多の大木が存在していた。北欧神話の世界樹に象徴されるように、多くの神話のなかでも樹木は生命を表現するものとして用いられているけれど、そんな古い木々を見ていると安らいでくる気持ちがあるのも確かだった。しかしそれ以上に寒さがこたえてきたので、その場を去って宿に荷物を受け取ってから昼食をとりに行くことにした。

 

 宿に戻り、おじさんに別れを告げてから、諏訪地方の名物であるうなぎを食べることにした。口に含むと、とろけるように舌に絡んでいくうなぎはとても美味だった。熱燗と一緒においしくいただく。

 

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 店内に流れる筝の雅楽に耳をすませながら、何を考えるわけでもなくぼうっと午前中に見た景色のことを思い出していた。色々な景色が浮かんでは消えていったけれど、お酒の入った頭ではそれらの映像を結び合わせて何かを思考することはできなかった。

 

 時間が来たので駅に向かって電車に乗って雪の下諏訪駅を離れる。

 

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 電車とバスを乗り継いでおよそ三時間、旅の最終目的地である阿智村に僕は向かった。

信州横断の旅(2日目)~諏訪大社上社、前宮~

 

 

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 旅行二日目。朝早い時間に起きて、蔵のラウンジでみんなと少しだけ談笑をする。アメリカ人の彼と何人かの常連さんがスキーに行くということで、彼らが出発するのを見送ってから、僕もバックパックを背負って蔵を離れて駅へと向かう。

 

 この日の目的地は、諏訪湖と諏訪大社。かつて縄文時代が栄えた諏訪のこの一帯の地域を一度見ておきたいとかねてから思っていた。縄文時代について、ぼくは専門的なことはよく分からないけれど、何千年と言う単位で文明が存続したこと、それらが高い精神的文化性を持っていたということ、海や大地と共存するように送られてきた縄文人たちの暮らしなど、深くひきつけられるテーマが縄文時代にはいくつもあった。実際に足を運んでその土地の空気感を肌で感じてみたかったのだった。

 

 蔵の近くのコンビにでサンドイッチとカフェラテを購入し須坂駅へと向かう。私鉄で長野駅まで行き、そこからJRに乗換えをし、宿の取っている下諏訪駅まで向かう。途中の待ち合わせなどを含め全部で三時間ほどの移動になる。須坂駅のホームには隣町に出かける婦人や、参考書に目を通す高校生(二月初旬に休みなのは気楽な大学生くらいだった)、やけに身軽な格好をしたおじさんなど、老若男女様々な人がいた。そんな中ぼくは静かに電車を待ちながら朝ごはんを食べる。

 

 

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(JR長野駅の改札口)

 

JR長野駅から下諏訪に向かうまでの道のりは、山という山をひたすらに越え続けるというものだった。姨捨山で有名な姨捨駅も途中で通過した。

 

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(どこで撮ったものなのか、忘れてしまった一枚。)

 

 のんびりと電車にゆられながら、お昼過ぎに下諏訪駅に到着した。

 

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 大きなしめ縄に巨大な木が寝かされていたりと縄文を感じさせるものがいきなりホームに置かれていた。

 

 

地図と現在地を照らし合わせながら大通りや裏路地などを抜け、宿に着いたのは1時を過ぎたころだった。「お昼ごはんはもう食べたんかい?」と宿主であろうおじさんが声をかけてくれた。「まだ食べてないです、先に荷物を預けようと思って」と僕が伝えると、「田舎のご飯屋さんは閉まるのが早いから、もう開いてないかもしらへんなあ」と時計を見ながらおじさんが言った。

 バックパックをあずけてすぐに、宿に来る途中にあった小さなカフェに向かうことにした。

 入り口からは小さく見えたカフェが、なかに入ると思っていたよりも大きかったことに気がつく。入り口をくぐると大きなホールが見えた。ホールの奥のほうにはアンプやドラムセットがのせられたライブステージと客席が広がっていて、手前側にはバーカウンターが拵えられていた。客は僕のほかには誰もおらず、やっぱりこのあたりの人はお昼ご飯を食べる時間が早いのだろうかと僕は思った。カウンター席に僕が座るとマスターがキッチンの奥から出てきた。日替わりメニューの鮭のクリームパスタを注文した。サラダとドリンクがついて700円か800円くらいだった気がする。

 お店のマスターはとても気さくな人で、音楽の趣味も似ていて、僕たちはしばし雑談をした。90年代の音楽の話、中国での生活の話、下諏訪にある様々なお店の話。最後にはマスターは小さな地図を取り出して簡単な観光案内もしてくれた。

 事前にきちんと調べていなかった僕が悪いのだけれど、どうやら諏訪大社を一日ですべて回ることは難しいらしいということにその時になって初めて知った。もともとはレンタサイクルで諏訪湖周辺を回れたらと思っていたが、まだ道に雪が残っていることと、レンタサイクルのお店のいくつかの規定もあり、そうすることは諦め、その日はまず上諏訪にある諏訪大社上社と前宮に行くことにした。

 

 店を出る前に、近々お店でライブをする予定はありませんか、と聞いてみたが、僕が滞在している間にはライブの予定はないとのことだった。残念だなと思いつつ、礼を言って僕は店を出た。

 

 電車に乗って諏訪湖を迂回するようにして上諏訪駅まで向かった。ちなみにここの線が中央線だと知って、これをずっと東に行くと八王子や新宿に到着するということが不思議だった。

 

 

 上諏訪駅からバスに乗って諏訪大社上社へと向かった。

 

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 山の麓にひっそりと佇んでいる、という印象だった。ぼくが訪れたのは冬の季節になるが、春や夏に来ると緑がもっと生い茂って生命力溢れる印象を受けることになるのかもしれない。もちろん雪にふんわりと覆われた本殿も、とても風情のある情景だった。

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 宝物殿などを見学してから(ここでは祭事の際にもちいる様々な神具をはじめ、近くの和田峠で採掘できる黒曜石なども展示されていた。)国道沿いを歩いて前宮まで向かう。

 

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 町の景色を広く見渡せる位置にきたとき、山が町を覗き込むようにして(或いは抱きかかえるようにして)そこに聳え立っているのが印象的だった。

 

 前宮は、上社とは打って変わって、とても素朴でより原始的な状態で山の麓に存在しているような気がした。国道を離れ、神社のなかに入っていくと、静けさがあたりを包み、山から流れる清流の音が時々聞こえてきた。

 

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 ずいぶんと歩き、わりと長い階段をのぼってきたのもあって、大樹に覆われた本殿の前でぼうっと休憩をしていると、やがて夕暮れ時刻へと差し掛かってきた。

 

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 それ自身に宿る何かがあるのか、時間的なことも関係しているのか、それともただの僕の思い込みなのかは分からないが、御柱を眺めたとき、何かしらそこに凄みのようなものを感じずにはいられなかった。そして真っ先に頭のなかで連想されたのは、去年の夏に訪れた、三内丸山遺跡のやぐらだった。いくつかの縄文集落に共通する「巨木信仰」、当時の縄文人もそれぞれ遠くに点在する集落を行き来しては、お互いを繋ぐシンボルとして、これらを高く掲げ、見上げては何か連帯感のようなものを感じたのだろうか。

 御柱を見上げたとき、前日の岩松院でも同じように北斎の天井画を「見上げた」記憶が、ふとよみがえってきた。もちろん、三内丸山遺跡でも、その大きなやぐらを僕は感嘆の念を持って「見上げた」。高いものを見上げるとき、そこに畏敬の念のようなものが伴うことは、何となく想像はできる。けれども、と僕は思う。本当のところ、その順番はどっちが先なのだろうか。そこに神が宿るから、僕たちは高きを見上げるのか、僕らが高きを見上げたとき、そこに神が宿るのか。縄文の人たちは、北斎は、その時何を考え、感じていたのだろう。

 

 

 前宮から再びバスの発車地点である上社まで戻る。循環バスは様々なバスストップにとまりながら、ゆっくりと諏訪湖へと戻っていった。

 

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(上諏訪駅には足湯が設けられていた)

 

 下諏訪駅に戻ってきたのは夜の七時過ぎだった。お昼のカフェのマスターからもらった観光マップをもとに、地元のとんかつ屋さんに行くことに。

 

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 この日も量がたっぷりのメニューだったが、一日中歩き回ってお腹がすっかり減っていたのでちょうどよかった。卵とじのかつどんに、コシのあるお蕎麦(信州のお蕎麦は本当においしい)、冷奴にお漬物もあって、ちょうど千円だった。お店は地元の人たちの酒盛りでにぎわっていて、人のよさそうな年配の女性の店員さんとその旦那さんの二人で切り盛りしているようだった。ゆっくりとご飯を食べて宿に戻る。

 

 この日もずいぶんと長い一日だった。その日の朝まで蔵にいたことが俄かには信じられないくらいだった。部屋のテレビを何の気なしにつけるとカーペンターズのドキュメンタリー番組が流れていた。諏訪湖とカーペンターズという、なんだか奇妙な組み合わせだったけれど、それをBGMにしながら僕は布団のなかに潜った。その日出会った、或いはすれ違った人たちのことを、頭のなかで思い出せるだけ思い出してみた。そんなことをしていると、それぞれにそれぞれの生活があるのだという至極当たり前のことが何だかとてもかけがえのないことのように思われてきた。やがて強い眠気が近づいてくるのが感じられたので、テレビの電気を消して、真っ暗な部屋のなか、僕は眠りにおちていった。

 

信州横断の旅(1日目)~小布施、須坂~

 先月のことになるけれど、一時帰国の東京滞在を終えて関西に帰る途中に立ち寄った、三泊四日の長野旅行の記録を記しておこう思う。

 

 

 

 初日は栗で有名な小布施にやってきた。

 

 

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駅のロッカーにバックパックをあずけ身軽になり、観光案内所で小さなマップを一枚もらってから、雪の残る道を歩き始めた。最初の目的地である小布施堂に向かって。

 

 

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 小布施堂では秋にしかモンブランが食べられないということで、同じ敷地内にあるカフェえんとつ(モンブラン専門店!)でモンブランをいただくことに。

 

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 マロンクリームがこれでもかというくらいにふんだんに使われていて、今まで食べたどのモンブランよりも濃厚だった。それでも味は重たすぎるというわけでもなく、最後まで飽きることなくおいしく食べられた。それなら秋に食べたのならいったいどれだけおいしくなるのだろうとも思わずにはいられなかった。

 

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(「えんとつ」の壁の上部にある小さな窓からは本物の煙突が見える)

 

 

 長野は縄文時代がさかえた土地のひとつであるけれど、この街の栗が有名なのは、縄文人の主食が栗であったことと、関係しているのだろうか? 店員さんに聞こうかと思ったけれど、怪しい人だと思われる気がして、その疑問は胸のなかに仕舞いこんだ。

 

 小布施に来たのは栗を食べるためだけではなく、葛飾北斎の天井画を観にくるためでもあった。小布施は北斎が晩年に数年間滞在したところで、その間に集中していくつかの天井画を描きあげたという。小布施にある岩松院には一枚(『八方睨み鳳凰図』)、北斎館には二枚(『男浪〈おなみ〉』、『女浪〈めなみ〉』)、それぞれおさめられている。

 三枚の画に共通しているのは、どれも「渦をまいている」ということ。渦はエネルギーの象徴で、晩年の北斎がこれらの画に込めた並々ならぬ思いがそこから伝わってくるように感じられた。

 岩松院は、シーズンオフということもあって、お寺の中にはスタッフのほかに僕しか拝観者がいなかった。ずいぶんと冷え込んだけれど、せっかくの機会だからと時間をかけてゆっくりと天井を眺めていたら、スタッフの方が「ここに座るといいですよ」と教えてくれた場所があった。「そこから眺める『鳳凰図』が正確な向きになります」と。

 そこに座った途端、まさに画がひとりでに回転をはじめ、その中から鳳凰が飛び出してくるんじゃないかと思えるくらいに、立体感を帯び始めたのを鮮烈に記憶している。

 「今でもこの画の塗料が床に垂れおちることがあります」とスタッフの人が言った。

 作者は死んでしまっても、作品は生きつづけているのだ、と僕は思った。晩年の北斎がこの画に込めた思いの真相は分からないけれど、魂の永遠性を僕はそこに感じた。この画が描かれたのは江戸の末期、今からおよそ160年ほど前のことになるという。

 

 

 

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 その後も、北斎観で北斎の作品を鑑賞し、醸造所で小布施の日本酒を楽しんでから、夕暮れ時刻に小布施を離れ電車にのってゲストハウスのある須坂へと向かった。

 須坂の食事処で「みそすき丼」というご当地グルメを食べた。豚肉と牛肉、そして須坂のごぼうなどの野菜を、特産である味噌で味付けをしてどんぶりにし、温泉卵とねぎがその上にのったボリュームたっぷりのメニューで、一日中滑りやすい雪道の上を歩き回ってすっかりお腹が減ってしまった僕にはちょうど良かった。それを冷たいおそばと一緒に平らげる。

 

 

 その日はゲストハウス蔵というところに泊った。フレンドリーな若いスタッフさんたちが経営するゲストハウスで、とても居心地のいいところだった。面白いのは、近くに住んでいる方たちも、それぞれ仕事終わりや、時間のあいたときなど、蔵のラウンジに遊びに来てはみんなで談笑していることだった。日常生活のあれこれや、遠い国に旅に出たときの思い出など、めいめいがめいめいの話をしていた。ここは、静かなこの町の、ささやかな居場所のひとつなのだと僕は思った。

 

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 遊びにきていた近くに住む常連さんと、その日宿泊予定のアメリカからの旅行者と、僕と、ゲストハウスのオーナーさんの四人で近くの温泉に行った。僕とアメリカ人の彼は男湯に、オーナーさんと常連さんは女湯に、一時間後に待ち合わせようと言って僕らはのれんをくぐっていった。

 出会ったばかりのアメリカ人とふたりで裸になって語り合うというのは考えてみれば何だかひどくシュールな情景で、正直なところ何を話せばいいのだろうと思ったけれど、つたない英語を駆使しながら、僕らはざっくばらんに話をした。彼は今、上海で英語の教師をしているとあり、こんなところでも(というと何だか語弊があるけれど)中国にゆかりのある人に出会うのは、不思議なことだと感慨深くなった。そんな共通点を見つけながら世間話や身の上の話などをしていると、あっという間に時間は過ぎていった。露天風呂には粉雪が少しだけ舞い降っていた。

 

 蔵に戻ってからは、ラウンジにあるギターで歌をうたったり(人前で弾き語りをしたのは何年ぶりのことだろう)、人が歌う曲の伴奏を弾いたり、なんだか絵に描いたような旅らしい時間が過ぎていった。もっとこの町に滞在できればいいのだけれどと思ったものの、明日からの行き先はすでに決まっていて、旅程を変更することはできなかった。またいつか、この町を訪れたいなと思い、部屋にもどって布団をしいて寝衣にきがえて電気を消して、長い一日の夜の眠りについた。

 

 

マナンさん家での出来事

 先日、マナンさんという大学の先輩が僕たちを招いてホームパーティを開いてくださった。実際には僕はマナンさんにお会いしたことはなく、友人たちがせっかくなら僕も一緒にということで誘ってくれた。地下鉄に小一時間ほど乗って、駅に近い閑静な住宅街を少し歩いたところにマナンさんの住む集合住宅があった。

 

 デザイナーをしているマナンさんは、部屋がとてもお洒落だった。自然光が柔らかく差し込む部屋には、描きかけの絵画や、彫刻作品などが至るところに飾られたり、もちろん茶盤や茶托など中国らしいものも置かれていた。それらは乱雑に配置されているというわけではなく、むしろ観る人たちに安らぎすら覚えさせるようでもあった。部屋全体が僕たちを歓迎してくれているような気が僕はした。

 

 マナンさんは朝早くから僕たちのために食事を準備してくれていた。一品一品どれも手の込んだ料理で、良い香りが家のなかを満たしていた。マナンさんが料理を作っている間、僕たちはテーブルと飲み物(中国茶も、ワインも、コーヒーも揃った贅沢なラインナップだった)を準備する。

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(辛さを一切取り除いた香鍋や、鶏肉の蒸し焼き、レンコンのはさみ揚げ、シャケと卵の炒め物などなど。シャケはわざわざ菜市場にまで出かけて買ってきてくれたとのこと)

 

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 鮮やかに盛り付けられた健康的な味付けの料理や、部屋のインテリアなどを見ていると、マナンさんはとても生活を愛している人なのだと僕は思った。そういった繊細な中国人に出会うと僕はいつも内心何だか嬉しくなってしまうけど、この日はふとそこで感じてしまう嬉しさは自分の中のある種の偏見に基づいているような気がして、すごく反省した。正直に言うとそれは、日本の生活のほうが中国の生活よりも豊かであるという感覚である。

 

 もちろん経済学的な数字やデータから見ると僕のその感覚はある程度は事実なのかもしれない。でも、ひとりの人間の生活という観点にたった時、僕の感覚は正しくはなかっただろうと思う。市井のなかにいるたくさんの生活を愛する人たちのことを無視してしまっているのだから。

 

 中国には本当に色々な人がいる。日本にも色々な人がいると思うけれど、13億人以上の人口を抱えているこの国は、僕たちが思っている以上に「色々な」人がいるのだと思う。どこまでも底のない悪意に満ちた人もいれば、日本でもなかなか出会うことのできないくらいに心根の優しい繊細な人だっているのだろう。簡単な言葉を肌で理解することが、これほどに難しいことなんだということを日々感じる。でも、その言葉に今まで以上にリアルに近づけた気がして、心に残る1日だった。マナンさんのように日々の生活を大切にしている人に、愛している人に、僕は他ではなかなか出会ったことはない。

 

 なんだか論理の飛躍した話かもしれないけど、そんなことを感じたご飯会だった。もちろん言うまでもなく、ご飯とお酒が最高においしいパーティでした。

 

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(部屋に飾られていたマナンさんの作品)

バス停の彼女とクラスメートの彼ら。

 先日、大学近くのバス停でバスを待っていたら、わりと綺麗な身なりをした同年代くらいの女性が突然声をかけてきた。いきなりのことだったので何を言っているのかよく分からず聞き返してみると、「私は今日、遠いところから北京まで旅行にやってきた。しかしあまりお金を持ち合わせておらず、少しでもいいので分けてくれないか」というようなことを言っていた。随分と変わったことを言う人だなあと思ったところで、待っていたバスが向こうからやってくるのが見えてきたので、そのまま聞き取れないふりをしてやり過ごそうと思った。それでも何度も話しかけてくるので、「申し訳ないけれど、僕にはあなたの言っていることがよく分からないんです」とだけ言った。すると彼女は「ああ、あなた日本人でしょう?日本鬼子ね」と言ってどこかに去っていった。いきなりのことだったけれど、その言葉に傷ついたという感情はあまりなく、むしろこういう若い女性からでもそんな言葉を聞くことがあるのだなあとバスに揺られながら僕は意外に思った。

 

 話は変わって、今、僕の所属している現代文学専攻科には僕を含め三人の男子学生がいる。中文系全体では女性のほうが多いので、僕としては彼らがいてくれてとても気が楽になったし、勉強面でいろいろ助けてくれたりもしてくれて、とても感謝している。その二人は同じ寮の同じ部屋に住んでいるということで、この前部屋まで遊びに行った。するとひとりの机の上に中国の国旗が挿されているのを見た。そういえば、彼らふたりと初めて会った日、国旗の彼が僕に冗談っぽく「中日関係についてどう思う?」と聞いてきた。するともうひとりの子がそれを制止して「そんなことは初めて会った日に聞くことじゃないよ」と言った。僕もその時は政治の話が好きな好奇心のあるやつなのかなあくらいにしか思わなかったけど、彼の日常の何気ない言動、極端な発言で有名なある愛国的(反日的)な先生の研究室に自ら進んで入っていったこと、それからこの机に挿された赤い国旗を見て、いろいろと合点がいった。彼がどうしてそう思うようになったのかはまでは僕には分からない。もしかしたら家族や親戚のなかに日本のせいでとても辛い思いのした人がいるからかもしれないし、彼が個人的に読んできた本や触れてきた先生たちの影響なのかもしれない。だけども、僕としてはそんなことに関わらず彼が僕に対して良くしてくれているということ、何よりもその事実を大切にしたいと強く思った。

 

 中国でいろいろな「愛国(或いは反日)」的な人を見ていると、それがある境目をしてふたつに分けられるような気がした。それは誰かを貶めることでしか掲げられない「愛国」と、自分の胸のなかに秘めている静かな「愛国」。誰かを傷つけることは、結局は自分自身を傷つけていることと同じなのだから、そんな風にして立ち上がる愛国心はとても危うくてもろいと僕は思う。後者の愛国はどうだろう。僕としてはそういう人たちが胸の奥に秘めている言葉に耳を傾けたいと強く思う。そこにその人をつくる大切なものが潜んでいるような気がする。

 

 本当はそんなものにとらわれずに、目の前にいるひとりの人間としてその人と接していけたらいいのにと思う。だけれども、この国で、相手をできるだけ不快な思いにさせないためには、相手が日本について心の深いところでどのように感じているのかということに、ある程度敏感になっておくことも必要なことのように思える。ただ僕はそれを歴史問題という大きな言葉で語りたくはない。相手にとって本当に辛い記憶、言葉にしたくない記憶ほど、心の深いところに眠っていて、僕としてはそれを知らぬ間に刺激し、相手を傷つけるということを避けられればと意識するだけだ。日常生活の小さな一コマずつの連続のなかで、目の前の相手をどこまでも大切にしていけたらと思う。