優しい木漏れ日の降るある秋の昼下がりにーー蓮沼執太と彼の音楽について

 

 今からおよそ十年くらい前の優しい木漏れ日の降るある秋の昼下がりに、大阪の日本橋にあるK2レコードというCDショップを訪れた。その頃僕は自宅で浪人生をしていて、鬱々とした生活のなかでのほとんど唯一の楽しみが電車に乗って月に二回ほどそのレコード屋に向かい、新しい音楽に出会うためそこで大半のアルバイト代を費やすことだった。K2レコードは少し風変わりなところで、入り口すぐの棚にアルケミーレコードやトラットリアといった前衛的な音楽が強烈にプッシュされていたり、二階に上がれば環境音楽からアルゼンチン音響派や中東の民族音楽など世界のあらゆるジャンルの音楽を深く掘り下げた棚が並んでいたりと、ともかくさまざまな音楽が店内にぎっしりと紹介されている不思議な空間だった。

 

 蓮沼執太の「Pop Ooga」はその日、一階にあるエレクトロニカの棚に一押しの音楽として並べられていた。窓から柔らかな光が差し込む風景のジャケット写真を見た瞬間、ほとんど何も考えずにそのアルバムを借りてみようと直感的に手を伸ばした。その頃はボアダムス周辺やRaster-noton関連のノイズ音楽にどっぷりとつかっていたので、いかにもまったりとした平和なジャケットのアルバムにどうして食指が動いたのかは自分でもよく覚えていない。もしかしたらその日の暖かな秋の光が心を幾分か穏やかにしてくれたからかもしれない。

 

 結局、その日から今にいたるまで何かにとりつかれたようにずっと彼の音楽を聴き続けている。浪人が終わり、無事に第一志望の大学に合格し、上京してからも、もちろん中国に留学に来てからも。東京で大学生をしている頃に初めて参加した蓮沼執太に関するイベントは2011年に東京都現代美術館で行われた「《have a go at flying from music part 3|音楽からとんでみる3》」という展示だった。白のパビリオンのなかで複数のスピーカーから環境音楽風の音が流れ、それが時間帯によって変化していくというような作品だったとおぼろげに記憶している(もしかしたら変化しなかったかもしれない)。この頃からすでに蓮沼執太は頻繁にワークショップや個展を開いていた印象がある。それらはどれも明確なコンセプトに基づいていて、そこで行われる音に対する根本的な追求はのちの蓮沼フィルやメロディーズにももちろん色濃く反映されているし、作品が出されるたびに音への感覚はどんどん研ぎ澄まされていっているようにも思われる。

 

 

f:id:tnkt41:20180106041421j:plain

(音楽からとんでみる3、2011年12月 at 東京都現代美術館)

 

 

 大学を卒業してからアメリカのレーベルで個人としてアルバムを出した(やがて日本のHeadzから逆輸入的デビューをする)蓮沼執太の音楽は、次に数人でのバンド形式の蓮沼執太チームになり、やがては15人編成の蓮沼執太フィルという形に進化していく(2018年には蓮沼執太フルフィルで活動を行っていくらしい)。その変遷はどこか音楽の三要素――旋律、リズム、ハーモニー――が体現されたものなのかもしれないとふと感じる。チーム時代はグルーヴ感のこもったセッション的な楽曲が多く、フィルになると15人の奏でる総合的なハーモニーへの追及に重きが置かれているように個人的には思われる。ちなみに、改めてデビュー当時のエレクトロニカ色の強いアルバムをいくつか聴いてると、ところどころに現在の楽曲にも変奏されているメロディが見つかったりして面白い。

 

 

youtu.be

 

www.youtube.com

 

 蓮沼執太フィル名義では2014年に「時が奏でる」というアルバムをリリースしている。のちのメロディーズでも同じ手法がとられているのだけど、基本的な作曲姿勢はスティーブライヒなどの流れにあるミニマリズムを踏襲しているように思われる。短いフレーズの繰り返しが、やがてまとまりを見せ始め、優しいグルーヴをともなってひとつの楽曲として立ち上がってくる。フィルの音楽を注意深く聴いていると、ハーモニーというのはそれぞれがそれぞれの役割をこなすことによって、総合的に生まれてくるのだということにふと思い至る。個人と個人との間の断絶が深刻化していく社会のなかにあって、彼の音楽が放つ光が示唆するものは少なくない。またフィルという西洋的な音楽の形をとりながらも、指揮者が不在するという東洋的な音楽観がそこに通底しているような気さえする。

 

 

www.youtube.com

 

 

 

 2017年1月には北京でも個展を開かれることになり(内容は日本で行われた『作曲的』にいくつかの新作品を加えたものだとおもわれる)、一方的に不思議な縁を感じつつ僕も友人と一緒にオープニングイベントに参加した。会場はリノベートされた胡同とその地下室で、イベント後半には現地のアーティストとの即興演奏も行われた。夕闇に溶け込んでいく胡同とカオスを増していくそれぞれの即興が絶妙に調和した素晴らしい演奏だった。

 11月にはこれも北京の亮馬橋で行われたフランチェスコ・ボナミがキュレートしたグループ展が開かれ、鑑賞することができた。ニューヨークでの創作や生活の様子が収められた写真が数点展示されていた。2017年9月11日に訪れたグラウンドゼロの写真が個人的には強く印象に残った。

 

 

f:id:tnkt41:20170114173407j:plain

 (作曲的、2017年1月 Beijing Cultuer and Art Center)

 

 

 僕が蓮沼執太と彼の作品について考えるとき、強く尊敬することが2つある。ひとつは彼の音楽に対する誠実さである。毎回の作品や個展にテーマやコンセプトがもうけられていて、それに対するトライアンドエラーが常に行われているように思われる。それを継続していくためには、ある種のストイックさが求められることはもちろん(本人はどこまでも音楽を楽しんでいるだけなのかもしれないけれど)、滞ることのないクリエイティビティが何よりも必要な気がする。率直に、彼は演奏能力がずば抜けて高かったり、極めて優れた歌唱力を持つといったタイプの音楽家ではないけれど、創作に関しては目を見張るほどの豊饒な創造性を具えていると僕は強く思っている。音に対する天性の感覚と、たゆまない努力が彼にそれを齎しているのだろう。彼の音楽に対する姿勢から多くのことを学ばせていただいている。

 

 もうひとつは彼の音楽の持つポップさである。常に音(楽)を多角的に捉えていこうと試みていること――たとえば時間と空間であったり、偶発と反復であったり――は彼の行ってきたワークショップや作品を聞くと感じるけれど、それらの探求の結果として現れるフィルやアンサンブルの音楽作品には他の現代音楽にありがちな難解さや前衛さの影はなく、素直に聴きやすい音楽が本当に多い。注意深く聴いてみるとそこには色々な仕掛けが埋め込まれているのだけど、総体として聞こえてくる音楽はとてもポップであるというのは、蓮沼執太作品の特色のひとつかもしれない。深く追求したテーマを分かりやすい形で提示することはとても大切なことだと僕は思う。そして何より彼はその昇華のクオリティがとにかく高い。

 

  たった一枚のアルバムがひとりの人間に与える影響は時にとても大きい。この記事を書きながら僕は本当に多くの刺激を蓮沼執太から受けていることを強く自覚した。そしてそれを思うとやはり浪人の日のあの秋の木漏れ日に感謝せずにはいられない。あの日の光の温もりがこれからも心の中に在り続けることを切に願う。

 

 

www.youtube.com