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胡同の帰り道

――北京での生活について、日常の雑感を書き記していきます。

老舎『駱駝祥子―らくだのシアンツ 』

中国文学読書会、老舎『駱駝祥子―らくだのシアンツ 』。学のないひとりの車引きの物語。

北京の方言を使って書かれた本で、最初は言葉に慣れるのに苦労したけど、後半はぐいぐいと作品に引き込まれてそのまま読了した。

20世紀前半の貧しかった時代の北京の悲痛な現実が、文化のない貧しき人々の営みが、叫びが、鋭い刺のように心に突き刺さり、その現実に息がつまりそうになる。そういった不条理や貧富の差異が、文化の生まれる源泉になり得えると思うとそれはひどく残酷な事実だと僕は閉口してしまう。しかし同時に、この世界の悲惨な現実の前に茫然と立ち尽くすことしかできない人々に希望を与えるのもまた文化なのだと思うと、文化っていったい何なのだろうと改めて考えさせられる。

この作品の特徴として、その情景描写の美しさがあげられるだろう。北京の日の出の、吹き抜ける強い風、セックスを暗喩した夜空の星々、残酷に降りしきる雨、それらの描写は思わず息をつくほどに美しい。しかし、読み進めていくうちにあることに気がつく。自然はこんなにも美しいのに、人の世はこんなにも悲惨なのだということに。男は汗を売り、女は体を売る。暑い夏がくれば人は死にゆき、みんなそれを当たり前のように、機械的に受け入れる。そして自然の営みもそんなことはいっこうに気にしない。それでも太陽は毎日昇り続け、風は爽快に吹き続け、雨は冷たく降り注ぎ、花々は依然として美しいままなのだ。自然は、時間は、世界は、宇宙は、僕たち人間のためには決して立ち止まってはくれない。その当たり前すぎるほどに当たり前な事実を厳然とつきつけられたとき、僕は胸が締め付けられそうな思いになる。自然は美しく、人の世は悲惨なのである。

北京に住み始めて2年と少し。発展を続けるこの街にはどこか重苦しさも漂うと事あるごとに感じていた。今まではそれが北京は政治の街だからという理由で納得していたけれど、この本を読んでそこに新しい理由がくわえられた。この街には、今からそう遠くはない時代に、本当に悲惨な時代がたしかに存在したのだ。そしてその傷は今もまだ癒えていないのかもしれない。

 

以下、印象的だった文章を少しだけ翻訳してみた。

「经验告诉了他,明天只是今天的继续,明天承继着今天的委屈。」
経験は彼にこう教える。明日は今日の続きにしか過ぎず、明日は今日のつらさも受け継いでいる、と。

「雨下给富人、也下给穷人;下给义人,也下给不义的人。其实,雨并不公道,因为下落在一个没有公道的世界上。」
雨はお金持ちにも貧しき人々にも降りそそぐ。義のある人にも降り注ぐし義のない人にも降り注ぐ。しかし実際は雨は全く公平ではないのだ。何故ならそれは公平ではないこの世界に降り注ぐのだから。

「在沙漠里养不出牡丹来。」
砂漠に牡丹の花は育たない。

 

読書会を指導してくださる先生はよく腰に手を当て軽く天を仰ぎながら快活に笑われる。先生は北京出身だ。真面目な方ではあるけど、おそらく根は面白おかしいことが好きなのかもしれない。冗談ともとれることもよくおっしゃる。その先生が読書会中、時々(不肖な僕はいつもそのスイッチがいつ入るのかよく分からない)暗闇の先を見つめるような鋭い眼差しで静かに何かを語りだす時がある。それは現代中国語の発展の歴史の話であったり、あるいは現実主義文学と虚構とのバランスについての話だったり、あるいは文革の話だったり。何を語り始めるかはその時になるまで分からない。僕にできることはただその瞬間を、重くもあり美しくもあるその時間を、全身で受け止めることだけだ。

 

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