信州横断の旅(4日目、最終日)~満蒙開拓記念館~

 

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 旅行も四日目、最終日に。

 

 前日の夕刻に阿智村の昼神温泉郷に入り、休息をとる。夕食では、鯉の煮付けを初めて食べた。聞くと近くの山の渓流でとってきたもので、身も引き締まっていてとてもおいしかった。ここは星がきれいな村だと聞いていたけれど、夜から雪が降ってしまい、星空を見ることは叶わなかった。温泉にゆっくり使って、早めの時間に就寝する。

 

  朝も宿で和食のバイキングを食べ、身支度を整えていざ出発。バスに乗って向かうは旅の最終目的「満蒙開拓記念館」。昼神温泉郷からバスに乗って20分ほど、「こまんば」というバス停で降りて、そこから歩いて向かう。

 

 記念館へ向かう道の途中には田んぼが広がっていて、そこには昨日の夜にかけて降り積もった雪が朝日に眩しく照らされていた。星は見れなかったけれど、その代わりにこの景色を見ることができてよかったと僕は思った。

 

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 バス停からゆっくり歩いて20分くらいのところに記念館はひっそりと存在していた。(僕は道を間違えて遠回りしてしまったので半時間以上かかってしまったのだけど……)まわりには学校と、小さなスポーツグラウンドのようなところがあるだけで、その他には特に何かがあるというわけではなかった。自然の美しさと静寂さが今になっては印象に残っている。

 

 

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 記念館は横に長い木造の建物だった。写真で言えば、奥側には展示スペースが広がっていて、手前側にはシアタールームが拵えられている。シアタールームでは、満州からの引き揚げ者たちの証言が延々と流されていた。

 

 まずどうしてこのような記念館が長野県にあるのかということに触れておかなければいけないのかもしれない。僕も記念館に来るまでは知らなかったのだけど、満蒙開拓に向かった人たちが全国で一番多かったのがここ長野県になるのだった。その他には東北地方各県や、熊本県も多かった。共通しているのは農業の強いところ。今よりも伝統的家族観の強い時代にあって、農家の次男や三男などに生まれた人は、あとを継ぐこともできず、将来の展望もひらけなかった。そんな状態で家に残っているくらいなら、満州に行って大地主になり、土地を耕していくことが国のためにも貢献できる、そう信じて多くの人が大陸に渡っていった。

 

 展示スペースは決して広くはなかった。それでもとても充実した内容だと僕は思った。いわゆる体験型の展示形態を採っていて、順路を前に進んでいくと時代が先に進んでいくという構成だった。満州開拓を奨励する大手新聞社の当時の記事や、引き揚げ者の生の証言、また残留孤児の父と呼ばれた山本慈昭さんの活動を紹介する展示など、ひとつひとつ時間をかけてゆっくりと観てまわった。

 

 証言のなかには、ソ連進攻後の逃避行の最中をつづったものがいくつもあった。結果としてシベリアに抑留された人、現地の中国人にかくまってもらいながら運よく生き延びた人など様々いたが、逃避行の最中ではあまりにも多くの人が死んでしまった。そのなかには子どもたちも多く含まれていたという。或いは過酷な逃避行の途上で息絶え、或いは泣き叫ぶ子どもの口を親の手で自ら押さえて。それは沖縄戦のことを僕に思わせた。けれども沖縄戦に比べて、満州のことはあまり広く知られていないのではないだろうかと僕は思った。

 

 思いにならない思いを抱えながら展示を読んでいるとあっという間にお昼の時間になった。僕が何も持ってこないで記念館に来たことを知ったスタッフさんが声をかけてくれ、近くのコンビニにまで車で送ってくださった。外の空気を一度吸うと、頭のなかがリフレッシュされて、ひどくお腹がすいていることに気がついた。コンビニで軽食を買って、もう一度記念館に戻ってくる。

 

 食事を済ませてから午後はシアタールームでインタビューを観ることに。全部で90分の映像だったが、ひとつひとつの体験に耳をすませていると、あっという間に時間が過ぎていったという感覚だった。


 映像の中には日本人だけでなく、当時残留孤児を引き受けて育てた中国人の養母さんたちの証言もあった。満州から逃避行をするなかで、多くの人たちが命を落としたけれど、生きて中国人に引き取られた/預けられた子どもたちもたくさんいた。後年、日中の国交が正常化してその残留孤児たちは日本の本当の両親を探して帰国をすることになった。そして親の見つかった方たちは中国を離れることになる。

 インタビュアーが「自分の育てた子どもたちが日本に帰ると知ったとき、どのような気持ちになりましたか」と質問した。養母さんは「とても寂しいけれど子どもたちのことを思うとそれを喜ばないわけにもいかない」と語っていた。「だって本当の両親に会えるのだから」と。

 

 バスの時間が迫ってきたので、スタッフのみなさんに丁寧にお礼をしてから、僕は記念館を離れた。もう少しここにいたかった、というのが素直な気持ちだった。バス停に向かう途中、現代化した家屋などを眺めていると、この静かな村から満州に向かった人たちが労働奴隷や難民となって大陸に取り残されていたという歴史と、今僕の前に広がる現実社会との連続性が俄かには信じることの難しい気持ちになった。しかし、それはかつて確かに起きたことで、そして、今も世界のどこかで起きていることなのだ。

 

 バスは名古屋駅に向かっていった。山を抜け、いろいろな長さのトンネルを抜けていると、旅が終わるのだという実感が涌いてきた。色々な出会いと、色々な親切さに恵まれた旅だった。ここで出会った人たちと、またいつの日か、再会できればいいなと僕は思った。