忘れられた大砲、民宿の彼女、大和賓館--大連、旅順旅行記

 この夏はチベットへの旅行のほかに、もう一つの長い旅行に出かけた。北京から実家のある関西まで、飛行機を使わずに陸路で帰るという制限のもと、大連→韓国→九州・中国地方と旅をした。

 

 先日にブログにも書いた映画の影響に加えて、自分自身も一度東アジアの文化の連続性を身体感覚で体験したいという思いがずっとあった。こんなにも近くに位置する国々なのに、日本と中国では習慣的に違うところがたくさんある。また北京で学ぶなかで、戦争の記憶に触れることが生活のなかで何度もあった。戦前、戦時中と日本の手が及んだ国々はアジアにはたくさんあるが、まずは日中韓の三カ国がそれぞれどのように戦争の記憶と向き合っているのか、自分なりに確かめてみたかった。

 

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 そんなわけで7月下旬のある晴れた日の夜に、寝台列車に乗ってまずは一路大連へ。

 

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 大連駅で荷物を預け、現地の友人と合流してから、電車に乗って旅順へと向かう。


 旅順では最初に旅順博物館を訪れた。一番の目的は、ここに収められているという大谷探検隊の発掘コレクションを観ることだったが、タイミングの悪いことに僕たちが訪れたときは該当フロアが改築中で鑑賞することができなかった。

 

 

 

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 それでも旅順博物館は、遼東半島に関する展示が非常に充実していて、興味深くまわることができた。印象的だったのは、遼東半島は北からは騎馬遊牧民の文化の影響があり、南からは渤海を隔てて山東半島からの影響があること。そして、二つの文化が融合するこの地から、再び韓半島に向けて海上の交流の道が古代から存在していたということだった。偶然にもそれは今回僕が歩いていく道とも重なっていた。


 博物館を出たあと、友人と近くの港まで行き海を眺めた。海の近くには小さな公園があって、小さな子どもを連れた若い夫婦が散歩していた。ひどくありふれた感想になってしまうけれど、それでも、こんなに静かで穏やかな港を巡って、ほんの百年前にたくさんの血が流されたというのは、想像しようにもなかなかできないことだった。

 

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 そこからバスに乗って、日露戦争の主要戦場のひとつである203高地に向かう。バスを降りてから、高地の頂上に登るまで、セミの鳴き声が耳朶にまとわりつくように響いていた。

 高地の頂上には戦死者を弔う慰霊塔と、その近くには大砲がまるで当時からずっと忘れられたままかのようにそこにあった。きれいに整列した大砲を見ていると僕はそこから「大砲たちはまだ戦争を続けている」という意志のようなものを感じずにはいられなかった。もうずいぶんと昔に人々の中で大砲の存在は忘れ去られているというのに。

 また、この近くにある大砲のひとつは、さきほど僕たちが訪れた海のほうを向いていた。この高地を抑えることが軍事的にどれほど意味のあることなのか、大砲は静かに語っているようだった。


 

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 日が暮れる頃に僕たちは旅順を出て再び大連へと向かった。食事をしてから、一日アテンドしてくれた友人にお礼と別れを告げ、僕は民宿に向かった。

 民宿は大連の古くからある高層アパートの一室だった。身体を横にして歩かないと通れないくらいの細い路地を抜けたところにそれは屹立していた。オーナーは大学を卒業したばかりの僕と年のあまり変わらない女性だった。とても快活な性格をした子で、楽しく話をすることができた。

 

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 彼女が今回の旅の目的を尋ねてきたので、少し迷ったけれど、戦争のことは伏せて、東アジアの文化の連続性のことと、日中の差異について話をした。
 真剣に耳を傾けてくれたあと、民宿をやっていると色々な人が泊りにくるが、僕のような目的でここにやってくる人は初めてだ、と彼女は言った。そう言われて僕も何だか素直に嬉しく思った。

 それから彼女が古い大連の町の記憶が記された本を持ってきて、いくつかのおすすめスポットを教えてくれた。翌日は午後には船に乗ることになっていたので、午前の時間を使って民宿の近くにある中山広場くらいしか観光することができなかったが、彼女の熱心さに感銘を受けた。

 

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 中山広場には日露戦争後から満州侵略時代にかけての日本の建築がたくさん残っていて、それらの意匠はたしかに馴染み深いものだった。銀行や劇場として新たに使われているものなどがあったが、そのなかにある「大連賓館」は今も昔もホテルとして使われていた。当時の名前は「大和賓館」という。

 

 

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 観光後は近くの餃子屋さんでウニの水餃子を食べて、民宿の彼女に別れを告げてから、大連港へと向かった。船に乗って向かうは韓国の仁川港になる。