世界で一番タフな15歳の少年――『海辺のカフカ』を読んで

 

 授業発表のために村上春樹『海辺のカフカ』(2002年、新潮社)を久しぶりに読み返した。前回読んだときは漠然と物語世界をイメージするだけで終わってしまったので、今回は精読を試みた。いくつかの気づきがあったので、ブログにまとめてみようと思う。

 

 

――物語のあらすじ

 

 主人公の田村カフカは15歳の誕生日の日に家出を決行する。目的は父にかけられた「その手で父を殺し、母と姉と交わる」(21章)という呪いから逃れるため、「すべてのものが歪んでいた」(同上)家から逃れるように、ひとり夜行バスに乗り込み一路四国へと向かう。

 

 四国にはカフカくんがいつか雑誌で読んだという「甲村記念図書館」という私立図書館がある。ここには大島さんと佐伯さんというどこか浮世離れしたふたりのスタッフが勤めている。この図書館での出来事を中心として、カフカくんが主人公の奇数章は進行していく。

 

 一方、偶数章では、ナカタさんという猫を会話ができる不思議な老人のストーリーが語られていく。ナカタさんはその能力を活かして近所で猫探しのお手伝いをするのだが、あるときナカタさんはひとつの殺人を犯すことになってしまう。その後、天啓に導かれるようにナカタさんも四国へと向い始める。家出少年のカフカ君と猫探しの天才であるナカタさん、この一見、何の関係性も持たないかのように見える二人の物語が並行的に語られていく。

 

――二つの物語を繋ぐ「入り口の石」

 

  二つの物語が結ばれ始めていくときのキーワードのひとつは「入り口の石」だ。奇数章では佐伯さんがかつて作ったとされる『海辺のカフカ』という楽曲の歌詞のなかにその言葉が出てき、偶数章では四国へと向かうナカタさんが探し求めているものもまた入り口の石になるのだった。そしてその石はリンボの世界への入り口に通じていた。

 

「なあ、君はリンボというものを知っているかい? リンボというのは、生と死の世界のあいだに横たわる中間地点……それがつまり、私が今いるところだ。今のところはこの森だ」 (カラスと呼ばれる少年の章)

 

 村上春樹にしては親切なことに説明的な描写がなされていたが、ナカタさんたちによって入り口が開かれたタイミングで、カフカくんは偶然にも四国の森から内なる迷宮であるリンボの世界へと足を踏み入れていった。そこは時間の概念が失われた、死者とほんの一部の生者 だけが足を踏み入れることのできる象徴性の世界だった。

 

 その世界で出会うべく人に出会ったカフカくんは元の世界へと戻ってくることを決意し、混沌と喪失をひとり胸に抱えながらも、世界から逃れるのではなくその一部分として生きていくことを静かに心に誓う。

 

 石は古今東西様々な文化・文芸のなかで永遠性の象徴という役割を果たしているように個人的には思う。例えば、中国の古典小説である『紅楼夢』はこの作品は特定の年代を指し示したものではないということが作品中にて述べられるが、それも物語にある種の普遍性 をもたせるための仕掛けだと解釈できる。スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』にはモノリスという黒い石版が出てくるが、これも過去・現在・未来と時空間を超越して物語のなかに突如として現れてくる。集合的無意識で知られるユングも石への強い興味を持っていたというエピソードもある。それらには仏教を基調とする東洋思想が通底しているように僕には思われる(『2001年宇宙の旅』は最後、輪廻転生を思わせるような描写で幕を閉じる)。

 

 

――二元論から一元論へ

 

 物語を読んでいると「二元論から一元論へ」というテーマが変奏的に何度も繰り返されることに気がつくが、その発想もまた極めて東洋思想的といえる。

 

カフカ君が意識を失い血にまみれた夜と、ナカタさんが田村氏を殺害した日の夜。→「わたし」と「あなた」の超越、「此方」と「彼方」の超越。

40年近く前に佐伯さんが恋人と関係を持った部屋と、カフカ君が寝泊りをする図書館の一室。→「過去」と「現在」の超越。

アイヒマンの犯した罪と、カフカ君に残った血の痕。→「わたし」と「あなた」の超越、「過去」と「現在」の超越。

 

 わたしのなかにもあなたがいて、あなたのなかにもわたしがいる/過去であると同時に現在でもあり、現在でもあると同時に過去でもある/こちら側とあちら側の境目の消失、という具合に。言葉にしてしまうとかなり概念的になってしまうが、これらの異化が物語のなかでは 効果的にメタフォリカルに行われているように感じる。

 

 

――引用、あるいはオマージュ 

 

 ここまではなるべく『海辺のカフカ』の枠内からこの物語を見つめてみたけれど、もう少し引いた視点からこの作品を眺めて見たいとおもう。21世紀に入ってから村上春樹は三作の本格長編『海辺のカフカ』、『1Q84』、『騎士団長殺し』を上梓しているが、俯瞰するとすべての物語が何かしらのオーマジュになっていることに気がつく。

 

『海辺のカフカ』→『オイディプス王』のプロットを下敷きに、源氏物語や雨月物語が作中で重要な作用をもたらす。

『1Q84』→ジョージ・オーウェルの『1984』を下敷きに、作中ではふかえりが平家物語を長々とそらんじる。

『騎士団長殺し』→『グレート・ギャツビー』の構図を下敷きに、『春雨物語』の「二世の縁」が物語のコアにある。

 

 こう概観してみると、村上春樹の物語は優れたサンプリング音楽、或いはコラージュ絵画のようにも思われてくる。また、日本文化への回帰と書くと言いすぎかもしれないが、初期のころに比べてその傾向が強くなっていることは確かだろう。

 

  

――神話的、寓意的、重層的に語られる生と死の物語

 

 この作品のなかは死と暴力が随所に描かれている。戦争の暴力、猫の虐殺、ジョニー・ウォーカーの二度の死など。個人的には、佐伯さんとナカタさんの死がとても印象的だった。

 

 恐らくはかつてナカタさんと佐伯さんもリンボの世界に足を踏み入れたのだと思われる。どちらも石の存在を知っているということ、そしてどちらとも影が半分失われてしまっていることなどからそのことが想像される(それではリンボの世界から還ってきたカフカくんと、大島さんの兄であるサダさんも、半分の影が失われてしまったのだろうか?)。

 

「サエキさん」とナカタさんは言った。「ナカタには半分しか影がありません。サエキさんと同じようにです」

「はい」

「ナカタはそれを前の戦争のときになくしました。どうしてそんなことが起こったのか、なぜそれがナカタでなくてはならなかったのか、ナカタにはよくわかりません。いずれにいたしましても、それからずいぶん長い時間がたちました。私たちはそろそろここを去らなくてはなりません」  (第42章)

 

 邂逅を果たした二人はそれぞれの目的が達成されることを確認して安心したかのようにそれぞれ死の世界へと安らかに入っていく。そしてリンボの世界を通過して次なる生へと移動していくのだろう。

 一方、佐伯さんと深い関係にあるカフカくんと、ナカタさんと旅の友となってここまできた星野くんは、大切な人の死を受け入れて(リンボの世界から帰還することで、あるいは暗闇のなか白の物体と対峙することで)、この世界を生き抜いていくことを決意する。

 

「諸君、焚き火の時間だ」、彼は明けかけた東の空を見上げながら言った。(第48章)

 

「やがて君は眠る。そして目覚めたとき、君は新しい世界の一部になっている」(第49章)

 

  ナカタさんとの旅を通して成長し、最後には真夜中の戦いを通り抜け、新しい夜明けの空を迎える星野くんの様子と、新しい世界の一部として目を覚ますカフカくんの様子は、新たな生への予感を大いに孕んでいる。佐伯さんやナカタさんが死ぬことによって生まれ変わるのだとしたら、カフカくんと星野くんはこの世界で生きていくなかで不断に生まれ変わり続けていく存在と言えるかもしれない。その姿から大きな勇気をもらう。

 

 ――その他

 ちなみにこれも再読のなかでふと気がついたのだが、カフカくんが森の中で聴く音楽のなかのひとつにRadioheadの「Kid A」が含まれている。実はこのアルバムのなかには「In Limbo」という曲がおさめられている。ふと思っただけだけど、村上春樹はよく細かいところまで作りこまずに長編小説は書き上げていく、というような発言をインタビュー等で繰り返しているけれど、「Kid A」も書いている最中にふっと思い浮かびあがったのだろうか(それとも推敲の最中で付け足したのだろうか)。

  

 


Radiohead - In Limbo