ノモンハンへ行く――東北地方、内モンゴルの旅(2/2)

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 ハイラル駅に到着したのは朝の7時前だった。どこまでも青く澄んだ空の下で、乾いた大気と明け方の草原の冷気に触れた瞬間、心が少し解放される感覚を覚えた。今年の冬には北京の大気汚染は随分と改善されたと報道がされていたけれど、冬が終わってからは元の木阿弥で、灰色の空の下で過ごす日が未だ少なくはない。

 駅はモンゴルパオを模した形の造りになっていて、民話か何かのワンシーンをモチーフにしたような大きな壁画が等間隔に並べられていた。広く突き抜けた空に加えて、漢語とモンゴル語が入り混じる看板などといった街の景色もあいまって、異なる文化圏に入ったことを強く感じた。

 

 

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 ドミトリーに荷物を預けてから、長距離バス乗り場に向かい、そこからノモンハン事件の戦場近くの町「新巴爾虎左旗(新バルグ左旗)」へと出発する。僕はひとりで向かったのでバスに乗ったけれど、もし複数人で向かうならハイラルでタクシーをチャーターする方が効率的だろう。一応、バスの時刻表は存在していたのだけれど、突如運休になったり、遅れて到着したりで、予定していたよりも一時間半ほどタイムロスをしてハイラルの町を出発した。ちなみに、このとき時間になってもバスが来なかったので近くにいた20代後半くらいの男性に、待ち合わせ場所はここで合っていますかと話しかけたところ、偶然にもこの方も行き先が同じだということを知った。バスに乗ってからも隣に座って色々雑談をしていると、彼は黒龍江省の出身で、モンゴル共和国で採油の仕事をしていると話してくれた。この日は新バルグ左旗まで移動をして、翌日に陸路でモンゴルに入る予定とのことだった。

 

 

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(地図上では新巴尔虎左旗と出るのだが、东旗や阿穆古朗と地元の人たちは呼ぶみたいだ)

 

 ハイラルから新バルグ左旗までは一本の舗装された道をひたすらに真っ直ぐに進んでいった。時折、向かい側から車や帰りのバス、あるいは大型バイクなどが走ってきて、お互いに合図のクラクションを鳴らして通り過ぎることがあった。その他には360度、地平線の向こう側まで広がる草原の景色と、小さな集落の付近に放牧された馬や羊が闊歩している光景が視界に飛び込んでくるくらいだった。もしも何かの不都合で、草原のど真ん中に放り出されるようなことがあればとても大変だろうなと僕は漠然と思った。日中には強い日差しが差し込み、夜には零下まで気温が下がるこの季節の草原で、とてもじゃないけれど生き延びていく自信はなかった(スマホが普及した今、そんな目に遭う可能性は限りなくゼロには近いだろうけど)。そういう意味では緊張感の漂う一本道だったし、フルンボイルに入ってからは、どことなく死の気配がいつもよりも近くにあるように感じられた。

 

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 途中の村でトイレ休憩を挟みながら、全部で3時間ほどかかって新バルグ左旗へと到着した。黒竜江の青年が、もしよかったら一緒にお昼を食べよう、近くにとても美味しい牛肉面があるから、と誘ってくれた。彼に案内されたお店で面を食べながら、外国人がひとりで観光するのはあまりおすすめできないと言って、近くの草原くらいなら一緒に観光に付き合えるよ、と彼が僕に言った。少し迷ったけれど、ここまで来たのはノモンハン事件の跡地にある記念館を訪れるためで、そこまで着いてきてもらうのは僕としても少し申し訳なく思う、と伝えたら、ひとまずそこまで走ってくれるタクシーを探してみようと言ってくれた。

 

 その後、ふたりで記念館までのタクシーを探したのだけれど、法外な値段をふっかけてくる運転手ばかりで、僕としては少し参ってしまった。たしかに記念館は町から少し離れたところに位置していることと、また黒竜江の青年曰くこの町自体が貧しいということもあって、そういう値段を提示してくるのだろうとのことだった。結局、目的地を記念館から、ガンジュル廟(チベット仏教のお寺で当時関東軍の指令部となった場所)へと変更をし、その近くの草原を案内してくれるという運転手も無事に見つかった。青年も記念館なら一緒についていけなかったから良かったよと話していたので、僕としてもこのルートにして良かったという気がした。

 

 

 ガンジュル廟までも、先ほどと同じように一本の道をひたすらに走り抜けていく。今度は大型バスとは違って身軽なタクシーなので、軽快に飛ばしながら30分ほど車を走らせる。草原には動物たちのほかに、時折チベット仏教のタルチョが木に結び付けられたりしている景色が見えたりした。やがて、ガンジュル廟の入り口前に、目印となるような道家の亭が視界に入ってくる。

 

 

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 ガンジュル廟のチケット入り口から少し歩いたところには、日本軍が当時使っていたトーチカが今もそのまま残されていた。窓のような空間には板が打ち付けられていて中をのぞくことは叶わなかったが、広大な草原にあるお寺のなかに、長い時間を経て変わらずに佇むトーチカを見ていると、近代とは何なのだろういう疑問が強く自分を揺さぶり始めた。遊牧民と放牧された動物たちが自然と共生するこの静かな暮らしを破壊し、この牧歌的な大地を掌握することに、どれほどの意味があったのだろうと思う。

 

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 蛟河の町が喧騒さの印象を強く残したのならば、ノモンハンの地域はそれとは正反対の静けさに包まれた地域だった。風の音と、馬の駆ける足音、そして鳥のはばたき。ガンジュル廟のなかにはたくさんの法輪があって、その音が空気のなかに響き、やがて溶け込んでいく。北京にいると自然を感じる瞬間がとても少ない分、心が癒されていく感覚を覚えずに入られなかった。 

 

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 ガンジュル廟を観光してから、近くに天然水が湧き出る地帯があるというので、そこに寄り道してから町へと戻ることにした。そのスポットには地元の人たちが空のタンクを持ってたくさん集まってきていていた。青年と運転手が水を飲んでみなよと勧めてくるので、両手で水を掬って飲んでみた。お腹を壊しませんようにと内心祈りながら、しかし旅行先では特に飲食に関する地元の人のおすすめには無抵抗で従ったほうがいいという信条を何となく僕は信奉しているのだった。(水は冷たく、透き通っていて、結果、何も問題はありませんでした)。

 

 

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 町に戻って、全部で二時間強のアテンドをしてくれた黒龍江省の青年と別れを告げ、帰りのバス乗り場へと僕は向かった。バスのなかで、お昼に会議があると話していたのだけれど、それをパスしてまで観光に付き合ってくれて、しかも食事までご馳走になって、とてもあり難く思うと同時に、与えられてばかりで申し訳ないような気もした。もちろん良くも悪くも一概に言えることではないが、中国旅行に出るといつも親切にしてくれる「好客(客をもてなしてくれる)」な中国の人たちに出会うことが多い。いつか、自分なりの形で出会った人たちに何かしらの恩返しがしたいと強く思う。

 

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 フルンボイルでの残りの時間は、ハイラル市内の観光にあてた。印象的だったところは、フルンボイル博物館で、フルンボイル草原の歴史が旧石器時代のころから展示されていた。中国東北の騎馬遊牧民の歴史は、数多の民族が勃興と移動と衰退を繰り返してきたので、正確にそれをキャッチアップすることはとても難しいのだけれど、この草原の一角から、やがてユーラシアを横断する帝国が立ち上がってくるのはとてもロマンがあるなあと思った。フルンボイルとほとんど同緯度に位置するウランバートルもいつか訪れてみたい。

 

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 博物館ではシャーマンに関する展示も良かった。儀式中のシャーマンの写真を見ていると強い既視感を覚えて、それが沖縄のエイサーに似ていることに思い至った。根底には道教の世界観が横たわっているのだろうという予感はするけれど、どのような経路を通して文化が伝播していったのか、またきちんと調べてみたいと思った。シャーマンの展示は、シベリアの遊牧民(エヴァンキ族やブリヤート人など)だけでなく朝鮮族のシャーマンの衣装や道具なども展示されていて、とても興味深くそれらを眺めた。総じて、草原での遊牧という生き方が、どのような価値観の文化や風習を形成しているのかが概観できる展示になっていた。

 

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 ハイラルでは実質二日間しか滞在せず、訪れてみたい箇所はいくつかあったのだけれど、体調が優れなかったのでドミトリーで休んでいる時間が長くなってしまったのが残念だった。大方の観光を終えて、発熱する身体を休めるためにドミトリーのベッドで横たわっていると、ノモンハンで感じたことが脳の中でどんどんと先鋭化していき、現実が遠のいていくような感覚に襲われた。静かなこの地で起きた80年前の暴力の渦に飲み込まれてしまいそうで、いっこくも早くここから離れたいという思いが強くなってきてしまった。

 

 それから予定よりも早く、疲れた身体を引きづりながら荷物をまとめ空港までのタクシーを拾った。タクシーに乗り行き先を告げると、運転手が日本人かと僕に訊ねてきた。正直なところ疲れていたのであまり雑談はしたくなかったのだけれど、そうですと答えると、自分の「哥们儿(親友)」は日本とモンゴル族のハーフなんだと話してくれた。この町に日本人が生活をしているのは珍しいですね、と答えると、彼の父親は戦争のときにこの町にやってきて、それからここで結婚してそのまま残ったんだ、と言った。

 そういう人もいたんだと僕は思った。とても珍しい話で、機会があればぜひ詳しく話をうかがってみたかったけれど、すでに空港に向かうタクシーの中だったので、とても残念だと思った。そのことを素直に運転手に伝えると、けらけらと笑ってから、その哥们儿によろしく伝えておくよと言っていた。それから一通りお互いの身の上話をしていると、いつの間にか気分もだいぶリラックスできて、空港に着くころにはかなり元気になっていた。楽しい時間をありがとう、と握手をして僕たちは別れた。

 

 ハイラルの空港ではリラックスしているように見えた地元の人たちも、北京に入った途端、どこか肩身が狭そうな、そして警戒心を高めているような、そんな風な様子に見えた。そして僕にとってはこちらが圧倒的にホームであることもまた強く感じた。

 長春、蛟河、そしてハイラル、ノモンハン。近代化のすべてを否定することはできないし、進んでいく時の流れを巻き戻すこともできない。それでも今回の旅で近代化が孕む根源的な矛盾や虚しさを突きつけられることが多く複雑な思いになった。一体それは誰の幸せのためであったのだろう。そしてその幸せは誰の不幸の上に拵えられたものなのだろう。大きな問いが脳裏をよぎるけれど、自分にできる目の前のことからこつこつと、しっかりと。

 

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 文学は無力なものだと見做されがちかもしれないけれど、ふと今回の旅行の原点に 『ねじまき鳥クロニクル』があることを思うと不思議な感慨に胸を打たれる。初めて読んだとき、自分がそこの地を訪れることになるとは露とも思わなかった。もちろん、今回の旅行に踏み切るまでに他にもたくさんの複合的な要因があったにせよ、文学、或いは言葉が自分の現実を動かしてくるということを今までよりも強く感じることになった旅でもあった。またまとまった時間を見つけてはゆっくりと再読してみたいな。

 

「死んでこそ、浮かぶ瀬もあれ、ノモンハン」*1

 

*1:『ねじまき鳥クロニクル』第一部97頁、新潮社、1994年