抗日から反戦へーー『四世同堂』を読んで思ったこと

 

 夏休みの終わりごろから、老舎の『四世同堂』 を毎日少しずつ読み進めていた。手元には人民文学出版社(2012年出版)の中国語原文上下巻と、学研(1983年出版)の『老舎全集(8~10巻)』の日本語訳版のそれぞれがあった。中国語原文をメインに、日本語版は参考程度にしながら、まさに水滴石を穿つの思いで、日々読み進めていった。

(以下、この作品に関するネタバレを多分に含みます。)

 

・二度にわたり「発見」された原稿

 

 本題に入る前に、この作品が辿った数奇な運命に言及しておきたい。序文にて老舎は本作品の構想を、「全百章、合計百万文字、三部(惶惑、偷生、飢饉)構成」にすることを記している。本作品が書き始められたのは日中戦争下の1944年、前の二部が発売されたのは1946年だが、全三部がまとめて発売されたのはそれからずっと先の1980年のことになる。しかし、この版では全87章しかおさめられておらず、老舎の当初の計画とは大きく違ってくる。

 実は、『四世同堂』の第三部「飢饉」の一部は、一度原稿が失われている。新中国での自己検閲や、文化大革命の動乱などに老舎自身も巻き込まれたため、原稿の在り処が掴めなくなってしまったのだった。

 その失われた原稿が発見されたのが、1982年の出来事だった。正確には、行方不明になっていた原稿が見つかったのではなく、当初の計画に一番近い形で出版されていた英語抄訳版の存在が広く知られることになったのだった。ただ、学研版の「解説<補注>」のなかで日下氏は、この抄訳版は1951年にはすでに出版されており、不完全な状態のままだった作品を読んだ研究者がその存在に気がつかなかったことは、「怠慢であると言われても仕方がないだろう」と指摘している。

 今回、僕が読んだのは87章に英語抄訳版から13章を重訳した版になる。しかし、中国語版の表紙をひらくと目に飛び込んでくる著書詳細情報には「文字数約88万字」と明記されている。これは誤差なのか、それとも構想通りなのか。

 

 実は2017年に、 この作品は二度目の発見を経験する。英語訳版の完全原稿がアメリカで発見され、それをもう一度中国語に重訳した版が、2017年に『完全版 四世同堂』として中国で発売されたのだった。新たに訳出された分量は約10万字にのぼり、僕が読んだ版のものと足し合わせると、約98万文字、当初の老舎の構想と限りなく近いものになる。

 手元にあったからという理由で人民文学出版社版を読み進めたが、読了してすぐに完全版のほうを注文した。ただ、10万字が足りてないとはいえ、物語の大枠が根本的に変わるわけではないので、完全版を読み終える前ではあるが、レビューを書いておこうと思う。何よりも、読み終わったばかりの熱量をまず記録しておきたい。完全版のほうのレビューも、また後日記録することができればと思う。

 

 

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四世同堂 (豆瓣)

https://book.douban.com/subject/20268124/


 

・ 抗日から反戦へ

 

 物語は日中戦争本格開戦の契機になる盧溝橋事件の起きた1937年の日本占領下の北平(中華民国時代の北京の呼び名)にある架空の胡同(日本語訳では横丁と訳されている)、小羊圏胡同での出来事を中心に描かれている。タイトルにもある四世同堂は、その胡同のなかに住居を構える、祖父、父、息子、孫と四世代の人々が住んでいる祁一家のことを示している。小羊圏胡同には殊に貧困な人々が身を寄せ合うようにして、近代中国の動乱(義和団事件、清朝末期の動乱、第一次国共内戦等々)を生き抜いてきている。つまり、この物語が語るのは、下層社会を生きている人々の眼を通してみる、日本軍占領下での北平の姿なのだ。

 

 胡同に住む人々はもちろん、祁一家にも様々な性格の人たちがいる。大きく分けて、彼ら彼女らは、日本軍及び日本に協力的な中国人に対して(直接的/間接的)抵抗を貫いていく人々と、甘んじて日本軍に対し協力する漢奸の人々とにわかれていく。作品のなかで老舎が最も鋭い筆致をもって批判していくのは、日本軍だけでなく、この漢奸たちに対してでもある。同時に、前者ほどではないにしても、無残に侵略されていく北平に対して直接的な抵抗をとらない人々へも、またそのような人物を育てることのなかった北平文化そのものへも、嘆きにも似た批判の矢を飛ばす。

 

 前半二部は読んでいてとにかく暗澹とした気持ちになってくる。日本軍によって蹂躙されていく北平やそこに住む人々の様子はもちろん、自分の保身だけを考えて嬉々として日本軍に協力していく、胡同に住む冠家の人々と彼らと手を組む祁家の二番目の息子の瑞豊夫婦の振る舞いも見るに耐えないものがある。この人たちの策略と保身のせいで、数多くの良心ある人々が或いは牢獄につれられ拷問をうけ、或いは不当に財産を持っていかれ、或いは不条理な死を遂げていくことになる。

 小説はフィクションなので、ここで描かれていることすべてが現実に起きた出来事ではないが、残酷な情景は多く描かれている。例えば拷問シーンでは、日中戦争中に日本軍が頻繁に行ったとされる「水責め」が描かれており、これは野田正彰氏が『戦争と罪責』(岩波書店、1998年)にて記した記録と合致する。また、戦争のなかの直接的な暴力以上に、遅効性の毒が身体を確実に犯していくような、長期的に人々を蝕んでいく精神的暴力を、この小説はうまく伝えている。そういった数々の暴力を、僕は第三者目線で読むことなど到底できなかったし、少なくない日本人読者がそう感じるのではないかと想像する。

 

 さて、上記のような凄惨な状況を招いた一番の原因は、間違いなく当時侵略を行った日本人たちにあるのだが、この作品の偉大さは、それでも「日本人」をひとくくりにして貶めてしまわず、なおかつ「抗日精神」から「反戦思想」へと思想の昇華が行われるところにある。それは、第二部から登場する、小羊圏胡同に住むようになった日本人婦人と瑞宣(祁家の長男であり、主人公でもある瑞宣)との関係、文人的な生活を捨て抗日運動の烈士へと変貌をとげた銭詩人などの人々の言動から読み取ることができる。

 この日本人婦人は、他の浮き足立った日本人とは違って、一貫して日本の敗戦を予想し、なおかつそのことを瑞宣にもたびたび伝える。彼女の身内も、あるものは戦死し、あるものは従軍慰安婦として連行されていったのだった。そして時は流れ、敗戦の知らせが胡同内をかけめぐり、住民たちがこぞってこの婦人を今にも叩きのめそうとするとき、瑞宣は身を挺して彼女を守るのだった。

 

 銭詩人の変貌が語りかけてくるものも多い。詩人は冠家の人々の告発にあい、牢獄で残酷な拷問にさらされ、心身ともに深手を負う。詩人はこれまでの士大夫的な生活を捨て、抗日運動に身を賭すことを決意し、以降抗日地下組織の一員として暗躍していく。

 詩人のレジスタンス運動は徹底しており、終始自身の内面の葛藤を解決することができず、何の行動も起こせないまま右往左往していた瑞宣とは対照的であった。50章では、詩人は平和のためには殺戮をも辞さないという持論を展開する。日本人だけではなく、彼らに協力を惜しまない権力の蜜に吸い付く漢奸たちも殺しつくさねばならないと説く。

 詩人の思想に変化がみられるのは、物語の終盤でもある84章での瑞全との再会シーンである。瑞全は祁家の三男であり、彼もまた抗日運動に参加するために、早くから北平を飛び出し、西安で行動するなど、祁家のなかで抗日活動にもっとも直接的に参加していた。このとき、詩人は瑞全に、自身の活動は三つの段階に分けられる、という話をする。

 第一段階では、拷問を受けただ恨みや仇を果たすことばかりを考えて、暗殺や宣伝活動に躍起していた。第二段階では、同じ志をもった仲間をつくり、個人的な恨みではなく、国家としての屈辱をはらすために、より大規模で効果的な抗日運動・愛国運動を行っていた。そして、第三段階では、国のために恨みをはらすことから、戦争そのものを消し去りたいと思うようになるのだった。

 

 自分たちの身内・同胞がその日本人にひどく痛めつけられ、自分自身もまた戦火をかわして生き延びてきた人(老舎は日中戦争期間中、自身の住処を追われ、中国各地の移動を続けながら執筆を続ける)が、日本人もまた軍国主義の被害者であったと表現することは、並大抵のことではないと僕は思う。ましてや、戦争が終わった直後の、まだ戦争で受けた傷もほとんど癒えず、記憶も鮮明に残っているころにである。ここに、中国人の、中国文化の懐の深さを僕は見る。

 そしてこの瞬間、この作品は、抗日という個別的な戦争に対する抵抗運動から、反戦というすべての戦争の反対と根絶を提唱する普遍的価値を持つ作品に昇華したと言えるのではないだろうか。

 

 

・その他

 

 戦争を描いた日本文学のなかで、これほどまでに市民の目線から徹底して戦争に向き合った作品があるのだろうか。どういった人間が、どういった野望や算段をもって、どのようにして利益をこうむり、そしてその結果無辜の市民たちを戦争という巨大な暴力の渦に巻き込んでいったのか。そのような悪魔的人間はどのような思想が育んでしまったのか。戦争は日々の生活の隅々にいたるまでにどのような影を落としていったのか。これほどまでに徹底して戦争に向き合い、具体的にそれを描き出し、そして国家や民族に縛られない普遍的な悪を徹底して糾弾した作品が、日本には存在するのだろうか。「私たちはみんな間違っていました」だけでは、中国だけでなく、アジアの人々と深い次元で対話をすることはほとんど不可能なのではないかと思う。

   

 最後にひとつ印象に残った部分を記す。学研版の中巻にて竹中伸氏が記した解説のなかに、占領当時の北平の様子について言及されていた。竹内氏は大正11年(1922年)から、途中一年間(大正14年)をのぞいて、日本敗戦の翌年まで北京に暮らしていたという稀有な人物である。貴重な証言として、少し長くなるが引用したい。

 

 作者は「日本人がいると周囲の中国人は皆頭痛を起こし、嘔吐を催す云々」と書いているが、これについて少し説明を加えておきたい。

 私が最初北京に留学した大正十年代から、あるいはそのかなり以前から、盧溝橋事件を契機とする日中戦争勃発までの北京の日本人居留民の数は、私の知る限りでは二千五、六百人前後であった。しかもその大部分は、いわゆる「老北京」と称せられる、二十年、三十年という長い間、北京に居住している人々で、中国語を話し、中国人を友とし、中国人を相手に商売をし、あるいは医療に従事するなどして中国人の信用を博し、深く中国人の中に溶け込んでいて、中国人から神様扱いされていた医師や歯科医師もいたほどであった。

 ところが、日中戦争が勃発し、日本軍が北京を占領した後は(……)一旗揚げることをもくろむ、ありとあらゆる種類の日本人が文字通り怒涛のごとく北京に押し寄せて来た。前記のように幾十年間も二千五、六百人前後だった日本人居住民の数は、アレヨアレヨという間にたちまち一万人を越え、五万人を突破し、敗戦直後にはなんと十万人を超過するという、真に驚異的、爆発的増加を見るに至った。

 従来北京の日本人居留民は、少数の例外を除き、ほとんど全部、東単牌楼を中心とする東城一帯に居住していたのであるが、前記のように日本軍の北京占領後怒涛の勢いで押し寄せてきた日本人は、たちまち北京全城内の隅々まで居住地区をグングンとおし広げていき、西城や北城、はては城外の小さな横丁にまで日本人の姿が”充満”するに至ったのであった。しかも、これら新来の日本人の大部分は、中国語を話すことができないことはもちろん、中国や中国人に対してほとんど理解も知識もなく、誤った優越感に加え、ことばの不通からなにかというとすぐ中国人に殴る蹴るの暴力をふるい、酒に酔って路上に寝ころんだり、中国人女性に悪ふざけをするなどの醜態を平気で演じるなど、実にさんさんたる状態であった。

(『老舎小説全集9』「四世同堂(中)」、解説546頁)